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かずこの遺言

 人は弱い生き物で、一人では生きていけない。オオカミやチンパンジーのように、群れをつくって生きてきた。
 
 心理学ではよく知られていますが、集団をつくると、他の集団に偏見をもち、敵対的になる。

 また、村八分にされると生きていけないので、同じ集団の仲間に気に入られようとし、みんなに合わせ、みんなと同じように振る舞い、仲間に認められようとする。

 こうした心理はたぶん、本能的なものでしょう。

 ただ、本質に立ち返って考えれば、集団とは、弱い人間が助け合って生きていくための仕組みです。

 人間はみんな自分がいちばんかわいい。誰もがエゴイストです。子供を守る母親は、自分の子供だから守る。母性愛などと美化しても、結局は自分がかわいいんです。みんな自分と自分の身の周りのことしか考えていない。

 だけど、一人ひとりが勝手なことをしたら、全員が困る結果になる。
 だから、集団の中でルールをつくって、みんなが生きられるようにしてきた。
 魚を獲りすぎたら、魚がいなくなるから、これくらいでやめましょう、とか。飢饉のときは、少ない食料を分け合って、みんなで空腹に耐えようよ、と。
 そうしないと、殺し合いになったら、生き残った人も負傷して死ぬ確率が高い。だから、みんなでつらいときも一緒に耐えよう、病気の人がいたら、みんなで支えよう。
 そういうルールをつくって、生き延びてきた。
 頑健な人は、みんなのために働く。それができない人は、みんなで支える。
 それが、みんなが生きていくための最も賢い仕組み。

 集団そのものが大事なのではない。あなたであり、私であり、一人ひとりの人間が生きていくことが大事なんです。だから、集団のために、個人が犠牲になるのはおかしい。
 みんなのために頑張る、というレベル以上に、みんなのために身を削り、命を投げ出すということを、誰かに強いるのは、おかしい。
 その場合はたいがい、集団内の誰か、権力をもったメンバーが、弱い立場の人を犠牲にして、自分の身を守り、メリットを得ている。
 本当は、権力者が得をするだけなのに、「みんなのために犠牲になってくれ」と、神話をつくって、若い人をだます。そんな神話にだまされてはいけない。

 集団(社会)のルールを守ること、みんなが支え合い、助け合って生きていくこと、その能力(体力)があるならば、みんなのために貢献すること。
 これは、人間が生きていくために必要なことです。

 最も大切なのは、一人ひとりの命。一人ひとりが生きていくこと。つらいことも悲しいこともあるけど、喜びもある。その一人ひとりの生が大切。

 今まで地球上にどれだけの人間が生まれて死んでいったと思いますか。
 宮内勝典という作家が作品の中で、そう問うている。
 もちろん、膨大な数です。
 私は宮内さんのこの文章を読んで以来、ときどき、その膨大な数の生に思いを馳せるようになった。私もまた、そこに連なる一人となる。
 おそらく、大多数の人がむごたらしい死を迎えただろう。誰かに抱かれることもなく、微笑むことも知らず、暴力的な死を遂げた人たち、それこそ虫けらのように死んだ人たちがたくさんいた。

 そうやって人間は生きてきて、大量破壊兵器という悪夢のような技術までもってしまった。
 でも、右の頬を打たれたら、左の頬を差し出しなさいという教えや、仏陀の慈愛を語り継いできたのも人間です。美しい洞窟画を描き、美しい音楽も奏でてきた。

 私たちは大量殺戮兵器がある時代に生きている。核抑止力なる奇妙な論理までもちださなければいけないような時代に。

 私は、軍備を減らして、戦争を回避することにしか希望はないと思っている。
 人々が慈愛の心や理性を奮い起こすことにしか希望はない。

 ロボット兵器を使えば、当方の人的被害は最小にできるなどという、狂った論理で、軍備拡大に突き進む人たちがいる。たとえ、ハイテク戦争でも、破壊行為を行えば、傷つき苦しむ人がいることに、なぜ思い至らないのか。軍備拡大は途方もない資源の無駄遣いです。軍拡競争はキリがない。論理矛盾。すでにほころびている。ちょっと飛ばすのにものすごくお金がかかるステルス戦闘機など、愚の骨頂。あんなけったいなものを開発して、誰が得をするのか。

 原子力村がそうであったように、閉ざされた集団は、本質を見失う危険性がある。

 私たちの身のまわりでも、集団の仲間の顔色をうかがい、みんなに合わせる生き方は、不必要な不幸を招きます。
 支え合って生きていくことと、世間に合せることとは違う。
 みなで決めたルールを守り、助け合いには参加しても、世間の価値観に合せる必要はない。わが道を行けばよろしい。

 集団内では、ときに奇妙なものが流行ったり、奇妙な価値観が幅を利かせて、みんなそれに巻き込まれてしまう。集団心理というやつです。
 卒業式で猫も杓子も袴をはいたり、大学3年から学生が就活に奔走したりといった愚かで異常なこと。それをみんな異常と感じなくなる。
 昼ご飯を一人で食べると、友達がないみたいで、恥ずかしいとか、学校のトイレではウン○はできないとか。異常です。

 企業でも、会社人間になると、社内で無難に振る舞い、ミスをせず、そこそこの評価を得ることがすべてになり、顧客が喜ぶかどうか、ひいては社会に貢献できるかどうか、という視点はすっぽり抜け落ちてしまう。

 集団内にいると、集団内で幅を利かせている価値観がすべてとなり、「それ、おかしいんじゃないの」と疑うことを忘れてしまう。「自分が本当にやりたいことは何なのか」と問うことを忘れてしまう。

 そういう集団は怖いです。暴走しかねない。集団心理で目を眩まされると、人間は思ってもみないような残虐行為ですら、平気でやるようになる。
 しかも、人間はエゴイストだから、ものすごい残虐行為をやってしまっても、自分を正当化する。都合のいい理屈をもちだして、自分の罪を認めない。

 集団が暴走し始めたら、「それは違う」と声を上げること、「ちょっと待った」とブレーキをかけること。誰かがそうしないと、破滅に突き進む。それは歴史が証明している。
 一人ひとりの力は小さいけれど、ちゃんと物事を考える人が一人でも増えたら——有権者の六割、いや四割が、自分の頭で、自分のこととして日本の行く末を考えたら、そうそう大きな間違いをしないですむ。

 自分が骨の髄までエゴイストであること、集団内の価値観に無批判に巻き込まれると、みんなで大変な過ちをおかしてしまいがちなこと。自分の欲と愚かさ。それを自覚して、みんなで知恵を出し合って、助け合って生きていかなければ、希望はありません。



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最後の投稿(二つあります)

 みなしゃま、
 このブログを始めて2年と9カ月くらいでしょうか、
 毎回、長々と書いてしまいましたが、読んでくださって、コメントを寄せてくださったみなさんには大変感謝しております。

 このブログでは、(1)私なりの水泳の楽しみ方を模索し、同時に、(2)私のような不器用な人でもスムーズに上手に4泳法が泳げるようになる基本を探ってきました。

 これまでの試行錯誤で、(1)(2)とも、ある程度答えが出たと思います。
 そこで、このブログは一応の役目を終えたということで、幕を引くことにしました。

(1)のほうですが、私のやりたいことは競泳でもなく、健康水泳でもない、いわばフェルデンクライス式水泳です。フェルデンクライスについてはあとで説明します。

 先日たまたま、舞踊評論家の蘆原英了が歩行について語っている文章を目にし、興味深く読みました。
 日本人は歩くという動作に無頓着だというんです。
 歩くことも、練習しないと上手にならない、と。
 この場合の「上手」とは、なるべくエネルギーを使わず、客観的に見て美しい、ということである、と。

 エネルギー効率がよく、美しい——それば、まさに私がめざしている泳ぎです。

「美しい」というのは主観的な基準なので、他のおばちゃんたちが「○○さんの泳ぎ、きれいねー」と言っていても、私はちっともきれいだと思わないこともあります。
 美しい歩行、美しい泳ぎとは、何なのかと考えたら、形ではないと思うんです。肘の角度が何度とか、手がこうなっている、といった形ではない。
 究極は、理にかなった動きが、美しい動きだと思います。見る人が見れば、「おおっ!」と感嘆するだけでなく、まったくの素人が見ても、やはり美しいと感じる。それが本当に美しい動き。
 ですから、若い選手だけでなく、体のバネが失われた高齢者や、障害がある人が、その人独特のバランスで泳いでいる場合でも、美しい動きになり得る。
 私のいちばん美しい泳ぎは、私の体に合った、理にかなった泳ぎなので、誰にも真似できないものでしょう。

 私は歩く動作についても、日々研究して、意識しています。工夫もしています。たとえば、地面の衝撃が直接、骨に来るのを感じたら、もっと衝撃を和らげられないだろうか、前に進む力にできないだろうか、などと考えて歩いています。私の歩行はまだまだ非効率です。これから一生、美しい泳ぎとともに、美しい歩行も探究しようと思っています。

 そこまで手が回るか、わかりませんが、希望としては、発声や日本語の発音も、練習したいです。私は喉を締め付けるようにして声を出す癖があり、もっとリラックスして音を響かせるように声を出せたらいいな、と思っています。

 フェルデンクライス・メソッドというのは、モーシェ・フェルデンクライスという人が考案し研究を重ねた体の使い方のエクササイズで、日本にもあちこちに教室があるようです。私は教室に行く気はさらさらありませんが、フェルデンクライスの考え方にはとても共感し、直弟子であるルーシー・アロンさんをとても尊敬しています。アロンさんはもう80代で、今も大変お元気ですが、これは60代のときの映像です。
http://www.youtube.com/watch?v=igpJeOkgfzw

 私がフェルデンクライスに共感するのは、彼のエクササイズでは、judgement(評価)ということをしない。
 あなたの動きは悪い、へただ、間違っている、という見方はしない。これが正しい姿勢だ、これが良い姿勢だと言って、動きを矯正することもない。
「習慣になっている動きと、ちょっと違った動きをしたときに、何が起きるか観察しましょう」というアプローチなんです。

 この話を大コーチにしたら、「いいですねー」とおっしゃっていました。「そのためにはまず、習慣になっている動きに自分で気づかないとね」と。

 そうなんです。そこが大事。蘆原英了さんも、今の自分の歩行動作の癖に気づいたら、しめたものだと、おっしゃっています。

 無意識に、無頓着に行っている動き。それが、体の一部に負担をかけていることがある。そのために年を取ると、痛みや故障が出てきたり、日常の動作にも支障が出てきたりする。
 よりムリのない、ムダのない、自然な動きを自分で探りましょう、というのがフェルデンクライスの考え方なんですね。人から教えられるのではなく、自分で気づき、探る。自分の体と対話する。それによって、動きだけでなく、心のあり方、生き方まで変わっていく。自分の中の囚われから解放され、より自由に動き、より自由に感じ、考えられる自分に成長していく。

 美しい動きの探究は、美しい老いの探究にもつながると思います。

 私はこれから日々、プールでそういう探究をやっていきたいんです。

 マスターズの大会には出ますよ。探究のプロセスの途中での、たった一人の研究発表会のつもりで。もし、大会で泳ぐ私を見掛けたら、「かずんこさん、美しい泳ぎをめざすなんて言って、マア、ブザマだこと、プッ」って笑ってやってください。あくまで途中段階ですからね。完成品ではないので、あしからず。そして、気づいたことがあったら、「バランスが崩れてますよ」とか、「こうなりますね、ああなりますね」と率直に観察した事実を言っていただけるとありがたいです。研究に役立ちます。

 探究のための土台となること、姿勢、重力/浮力の利用、体幹からのストロークについては、すでにこのブログで書いてきました。
 これから10年、20年すれば、またこの土台についても、私の考えは変わるかもしれません。現時点では、これらが基礎だと考えています。

 みなさまには、これでさよならではなく、またプールや大会の会場でお会いしたら、水泳談義をしたいと思っています。声を掛けてくださいね。

 この投稿のあとに、水泳とは別の「かずこの遺言」というものを投稿します。
 遺言とあっても、死ぬわけじゃないです。お迎えが来たらしょうがないけど、できたら、まだまだ探究を続けて、中村敬次郎さんのような達人になりたいと思っていますから。
 30年か40年、早めの遺言です。
 私が若い人に伝えたいこと。
 私の粗雑な頭で、ごく限られた人生経験と知識で、考えたことですので、
 緻密な頭脳をおもちの、人生経験豊かな、博識の方から見たら、笑止千万の拙いたわごとでしょうが、これは遺言ですので、コメントしないでね。
 コメントいただいても、私は読まないし、お返事しません。

*「かずこの遺言」のほうではなく、この投稿については、気が向いたら、コメントしていただければ、とても嬉しいです。

 では、またプールサイドでお会いしましょう!




脇腹の伸び/縮み

 今日はあまり時間がなかったし、知り合いの背泳ぎ直しを手伝ったので、ちょっとしか泳げなかった。

 知り合いの女性の背泳ぎは、まるで別人のように良くなった。
 先日、彼女に背泳ぎのことを聞かれたので、あまり深く考えずに、中高年の初心者向けのアドバイスをしちゃったんです。
 そのあと見ていたら、ハの字に入水しちゃって、入れたらすぐ掻くみたいなバタバタした泳ぎになっていて、
 こりゃまずいなと思って、家に帰ってからいろいろ考えた。
 どうも、この人はすごく肩が柔らかいようだ、肩の硬い中高年向けのアドバイスは合わないなと気づいて、
 今日また、いろいろ話して、肩の柔軟性もチェックしたら、やっぱりものすごく柔らかい。
 なので、入水で深く入ることを生かした掻き方にして、体の使い方も説明したら、みるみる良くなった。
 今まで肩から先だけバタバタ回していたのが、きれいな伸びやかなリカバリーになって(脇がちゃんと見えるようになった!)、ゆったりとしたテンポで泳げるようになり、掻き数は半分くらいに減った感じ。
 本人も「すぐ旗が見えてくる」とびっくりしてました。

 この人は子供の頃にバレエや体操をやり、大人になってからも、ダイビングやジョギング、ゴルフをしたり、陸上ではいろいろスポーツをやっているので、体の使い方の話をしても、一発でわかってくれる。
 リカバリーで胸をぐうっと伸ばす、でも、お腹まで伸びてしまって股関節が伸び切ると足が沈むから、体の奥のほうの腹筋を働かせて、と説明したら、すぐに理解してくれた。
 反り腰で、長身なので、クロールでも、頭が高くなり、足が沈みがちなのが悩み。それでも、背泳ぎのリカバリーできれいに伸びたら、今日は最後に足が浮いてきた。

 肩が柔らかく、反り腰の彼女はバタフライ向きだと思う。私自身がまだちゃんと泳げてないんだけど、近々教えると約束している。
 バタフライは、反り腰というか、背骨の生理的湾曲がちゃんとある人のほうが向いているようだ。
 ビッキーさんの泳ぎがきれいで、先生のスティーブンの泳ぎがちょっとね、なのも、スティーブンは腰が硬いからだと思う。私も腰椎がまっすぐです。
 ただし、反り腰の人は、クロールは苦手なケースが多い。どうしても頭が高い位置になって、へそ落ちしがちになる。

 私の骨格はやっぱクロール向きですねー。お風呂で腰を反るストレッチやってるんだけど。
 一昨日、昨日はばっちりだったバタフライが、今日はなんだかねーだった。
 帰り道で、原因に思い当たった。脇をぐうっと伸ばすことを忘れていた。伸びないと縮まない。

 yossyさんの気をつけスイムで、ハッと気づいてから、クロールも背泳ぎも、手と腕はほっといて、脇を伸ばし、縮めることだけ意識して練習しています。

 フィニッシュでグンと進むようになった。細かな調整は追々やっていくにしても、当分はこの意識で練習します。ラクなのに進むところが気に入っている。

 キャッチでぐうっと伸びて、フィニッシュでしっかり縮める。
 この泳ぎは筋トレにもなると思う。腹斜筋とか、鍛えられそう。

 バタフライは、腰椎がまっすぐなんだから、第一キックでのカンチョー姿勢をほんとは使いたいんだけど、これにはあまりこだわらず、クロール感覚で、脇をぐうっと伸ばして縮めることにポイントを置いたほうがいいかもだ。あれもこれもと欲張ってもしょうがないしね。自分に合った泳ぎにしていこう。

 

 

 

8月15日ですから

 図書館から借りてきた司馬遼太郎と井上ひさしの対談『国家・宗教・日本人』
 いろいろ面白かった。私が考えたこともないような視点もあり、知らないこともたくさん出てきて勉強にもなりました。
 何より、最後のほうで、司馬さんが「私は『普通の国』になどならないほうがいいと思っています」とおっしゃっていることに大いに共感した。

 私が思うに、戦後の日本は、悲愴感をしょって、独善的な正義感や偽善的なヒューマニズムを旗印にした左派と、途轍もない悲劇をもたらした重大な歴史的過誤を徹底検証せずに居直る右派との、不毛な対立に祟られてきた。
 司馬さんが言っていることの中に、私は新しいナショナリズムの可能性を感じました。
 ナショナリズムというと、なんか右翼みたいですけど、ナショナリズムと言って悪ければ、日本人としての誇りというか、
 民族の誇りというのは、やはり必要だと思うんです。
 しかし、自虐史観批判派には、私はまったく共感できない。
 国旗に敬意を表したり、式典で威儀を正して国歌を歌うのは、まことに結構なことだと思いますよ(私はそもそも式典には出んけどな)
 けれども、他人に「規律して国歌を歌え」と強制するのは、まるでタリバンだよ。
 思想信条の自由というものがある。それを尊重しようというのは、民族・国家を越えて、人類が長い歴史で獲得した知恵ですよ。普遍的なルール。そこを外したら、世界は弱肉強食の修羅場と化す。そのルールを踏みにじるやつには、世界中の人々が「いかんぜよ」と言うんです。

 司馬さんは、エスノセントリズム(自民族中心主義)を肯定している。
 日本人は日本人であることに誇りをもって、日本が世界でいちばんいい国だと思って暮らしていいんですよ。イヌイットもモンゴル人もそう思っていると、司馬さんは言っている。自分たちがいちばんいいと思っていていい、と同時に、井上ひさしさんが言うように、「隣の人もそう思っている」ということを忘れてはいけない。
 井上さんのことばをちょっと引用します。「大切なのは、お互いにみんなそう思っているという眼と、自分のところを大事にするという眼と、どちらか一方に偏ることなしに、両方、非常に矛盾してはいながらその矛盾を同時に持って生きていけるような、度量の広い民族になってゆけるといいですね」

 司馬さんは、経済力などではなしに、「室町時代には世阿弥という人がいたな」と思うだけで、ニューヨークでもパリでもわれわれは胸を張って町を歩けるとおっしゃっている。
 世阿弥がいた、西鶴がいた、広重がいた
 芸術家だけではないよね。宗教家もいる、物事を深く考えた人たちもいる。親鸞も、明恵上人も、兼好もいた。名もない人々もいた。日本列島に営々と暮らしてきたご先祖さまの生活の知恵、職人的な技術。
 そうした伝統が、われわれの拠りどころ。

 グローバルな人材育成には英語教育が必須なんて言っている、あほだらおたんちんに、司馬さんの話を聞かせたいわね。

 それと、安倍さん、あんた、おかしな使命感もってるようだけど(ナルシシズムなの?)、改憲するなら、うやむやにしてきた歴史的過誤の検証、こっちが先よ。
 これをきちんとやらずに改憲したら、ぐだぐだの、ぼろぼろの、だめだめ国になるアルヨ。
 その前にまず、足下を見て、原発事故の収束に道筋つけることと、東北の復興だわさ。あんたの仕事はそっち!





体幹からのストローク

 体で泳ぐ、体幹からのストローク
 なんて、さんざん書いてきて

 その意味が、いま初めて、ほんとに、わかたよ!!!

 PTさんのアドバイスを教えてくださったkemoさんや、yossyさんのQ&Aを教えてくださった蛍さんのおかげです。感謝!!
 いろんなことが、ヒントになるよねー。

 コーチーィ、わかりましたぁー(^o^)/

 コーチが「かずんこさんの潜在意識にある思い込みがまだ何かじゃましているような気がする」とおっしゃってたでしょ。
 その正体がわかたよ。

 コーチにずっと言われてきたことが、ほんとに、わかたさ。ワーイ、ワーイ、ワーイ。

「かずんこさん自身が、ほんとうに気づかなければ意味がない」とおっしゃってましたよねー。

 気づきましたぁ。

 手で水を掻く意識が、どんなにじゃましていたか。

 いや、手で水を掻くんですよ。けど、手で水を掻く“意識”は、じゃまになる。

 今日は早速、気をつけスイムをやってみました。
 平泳ぎは、下向きにキックを打てば、顔が出るだろうと思ったけど、気をつけ姿勢では、わたすはキックの打ち方を調整できなくて、できまひぇんでした(情けなや)
 でも、平泳ぎバージョンはムキになって練習しなくてもいいや。スイムに直結しないもの。
 クロール、背泳ぎは、気をつけ姿勢でも、スイム感覚でのローリング(焼き鳥回転ではない)を入れると、ただの気をつけキックよりも若干進みがよい感じ。クロールは、左の呼吸のほうがスムーズで、やっぱ右呼吸は悪癖を引きずっているなぁと改めて痛感。
 
 しっかし、気をつけスイム、練習にちょこっと採り入れようとは思うけど、これだけを延々とやるのは、わたしはムリ。yossyさんは、肩の故障中に、これをひたすら練習していたのは、凄いスイマー魂だと思う。
 わたしが、腕なしバタフライは得意だと言っても、yossyさんのように、人に「イルカみたい」と言われたことはなく、わたしの腕なしバタフライはやはり人間がやっているシロモノなので、yossyさんは名人級だと思う。彼女は元々フライヤーですからね。憧れるワ。

 ともかく、意識を体幹にもってったおかげで、今日はバタフライも、腕がリラックスして、うまい具合に泳げました。
 たぶん、もう大丈夫だと思います。

 何年も前に、パラリンピアンの木村潤平選手に「腕がじゃまでうまく泳げない」と訴えたら、「かずんこさん、腕なし人間になったつもりで泳げばいいじゃないですか」とアドバイスされたことがある。そのときは、わりとスムーズに泳げて、そうか!なんて喜んでた。
 いつか、rockyさんにも、肩と上腕を動かせば、肘から下は勝手についてくる、とアドバイスしていただいて、そのときも、なるほどねーと思ったのでした。

 何回も何回も言われて、そのたびに、そのときは良くても、また手に意識がいっちゃって……肘も肩もガチガチに固まってしまって、バラバラに崩壊して……
 そんな無残なことの繰り返し。

 けど、もう大丈夫。

 おかげさまで、ウーマンズの100mは、元気よくスタート台に立てます^^



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